ドキュメント産経新聞私史―広告マンOBが綴る水野‐鹿内ファミリーの実像本無料ダウンロードpdf

ドキュメント産経新聞私史―広告マンOBが綴る水野‐鹿内ファミリーの実像

によって 高山 尚武

ドキュメント産経新聞私史―広告マンOBが綴る水野‐鹿内ファミリーの実像本無料ダウンロードpdf - ドキュメント産経新聞私史―広告マンOBが綴る水野‐鹿内ファミリーの実像をお探しですか? この本は著者が書いたものです。 この本には262ページページあります。 ドキュメント産経新聞私史―広告マンOBが綴る水野‐鹿内ファミリーの実像は青木書店 (1993/03)によって公開されています。 この本は1993/03に発行されます。 ドキュメント産経新聞私史―広告マンOBが綴る水野‐鹿内ファミリーの実像は簡単な手順でオンラインで読むことができます。 しかし、それをコンピュータに保存したい場合は、今すぐドキュメント産経新聞私史―広告マンOBが綴る水野‐鹿内ファミリーの実像をダウンロードできます。
内容(「BOOK」データベースより) 苦節38年、もと社員がその体験をとおして語る産経新聞社の“インサイド・ヒストリー”。「正論」路線と社内体制・人事政策の驚くべき内実。 内容(「MARC」データベースより) 苦節38年、もと社員がその体験をとおして語る、産経新聞社の"インサイド・ヒストリー"。「正論」路線と社内体制・人事政策の驚くべき内実を明かす。

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今から本書を読む場合、まず初刊が93年(平成5年)であることを、ウッカリだろうと何だろうと片時たりとも忘れない方がいい。初刊からして四半世紀も経っているから、中には既に問題の解決を通り越して、一層良化している件もあるかもしれないからだ。著者ははしがきで、本書執筆の2つの動機を述べている。ひとつは、今も語り草であろう「産経残酷物語」とは何だったか、自身の体験も交えて是非語っておきたいということだ。「残酷ねぇ……どう残酷だったのか??」この「六字熟語」を知ったのは、決して本書が初めてではない。本書刊行の4年ほど前の89年(平成元年)、月刊誌『ビジネス・インテリジェンス』11月号の特集「産経新聞の読み方」の中で、産経出身のジャーナリスト青木貞伸氏がこう語っていたのが初めてだ。「僕がいた当時、後々『産経残酷物語』と呼ばれる恐怖政治が敷かれ、俵孝太郎氏その他がゴロゴロ辞めていった」青木氏はこれに先んじて88年(昭和63年)、別冊宝島72『ザ・新聞』に「サンケイ新聞の新残酷物語」とのタイトルでレポートしている。当時まだカタカナの「サンケイ」で、今の「産経」にイメチェンするのはその年の5月だが、『ザ・新聞』刊行が1月なので、レポートの執筆が実質87年ないしそれ以前だったからのようだ。因みに、その月刊『ビジネス〜』には青木氏が名を挙げた俵氏も出ていたが、青木氏が残酷物語も含めて概ね批判的だったのに対し、俵氏は残酷物語に一切触れなかったばかりか、むしろエールを送っていた。そしてもうひとつの動機が、「正論」路線の実態も語っておきたかったことだ。My愛読書No.1たる『メディアの興亡』(杉山隆男著・文藝春秋)のMyレビューの中でも述べたが、初めて自分でとり出した新聞がサンケイだった。それで、朝刊オピニオン面の「正論」とは、他での議論や論説等々は全て間違いで、「正論」こそ文字通り正しいんだという、自信満々と言えば自信満々、排他的と言えば排他的なコラムだと単純に思っていた。しかし、確かに正論などは古今東西、老若男女、社会的立場etc……によりけりで、少なくとも万国共通、万人共通などというものは残念ながら存在しない。受け取った人によっては、正論にもなれば極論や邪論にもなる。本書に言わせれば結局、政財界にとっての「正論」に終始しているに過ぎないのだ。そしてそれは、本書巻末にも収録されている、新聞倫理綱領からの逸脱にも他ならないと断じている。『メディア~』では産経については殆ど触れられていないが、仮に触れるなら「残酷物語」が避けて通れず、触れると紙数オーバーにもなると杉山氏が判断し、やはりシカト(?)したのだろうか……? あるいは、かつての毎日の日通事件や西山事件以上に凄惨で、さすがに取り上げるのを渋ったか、それこそ関係者にはあたったものの、取材NGだったか、色々考えられる。著者は46年(昭和21年)、就職難の中で新聞広告を頼りに、後に産経に合併される(有)世界日報に入社し、84年(昭和59年)の定年まで勤めあげた。なので本書は実質、戦後昭和における残酷物語といえる。だからといって、決して昔話として呑気に片付けられず、現在でも結構当てはまることが多い……いや、これからも十分あり得る点で要注目だろう。そんな格好な例が、東芝で不正会計問題により明るみに出た、「チャレンジ」と称する「東芝残酷物語」ではないか。それに次元はやや違う私事ながら、先にレビューした『社内恋愛の教科書』(片瀬萩乃著・あさ出版)で述べた、自分に対する迫害も「◯◯残酷物語」と声を大にして言いたいくらいだ(?)。正規非正規問わず、会社その他の法人・団体に勤めるとは、大なり小なりそういう残酷物語に出くわすこともあるということなのだ。一方「正論路線」に関しては、直接的には鹿内信雄を始めとする鹿内ファミリーが原点だが、そもそものきっかけを作ったのが、他ならぬ創業者前田久吉と、後任の水野成夫の“連携プレー”だろう。端的にいえば、2人が作った大赤字が、逆にむしろ財界の目の付け所となってしまったわけだ。前田については本書でも2ページほど、ごく簡潔に経歴等を触れてあるが、「個人経営的“前田商店”だった」と批判的に捉えていた。ただ、前田を擁護するわけではないが、当初はなかなか高い志で創業し経営していたようだ。先にレビューした『きのうの祖国』(杉山隆男著・講談社)についてのMy投稿の中でも取り上げたが、たまたま月刊『東京人』91年(平成3年)9月号に「東京タワーと風雲児・前田久吉」というレポート が出ていた。今の大阪市西成区天下茶屋で生まれ育った前田の新聞人生は、母方の祖父母の経営だった有川新聞舗を引き継いでの販売店主から始まった。大阪朝日や大阪毎日その他複数紙を扱う合売店で、やがて南大阪屈指の販売店に育て上げる。そして更なるジャンプアップを目指し、7年やってきた販売店を退き、地元天下茶屋周辺をエリアに1920年(大正9年)7月、タブロイド版の週刊「南大阪新聞」を創刊する。これが後年、自分がKIOSKでの即売で扱うことにもなる大阪新聞となる。更に前田は、33年(昭和8年)6月20日に日本工業新聞を創刊し、後に産業経済新聞にまで発展させる。ただ、その余勢だったのかどうか、大阪に続いて東京にも建設した「産経会館」の建設費負担が重くのしかかった。実に借入金34億6000万、支払手形13億4000万だったといい、ここで水野成夫と交代する。なお、今の関西テレビを開局したり、東京タワーを建設したというのも前田だとは、これを読むまで知らなかった。しかし財界のバックアップで乗り込んだはずの水野も、64年(昭和39年)に琵琶湖西岸の比良山にスキー場「サンケイ・バレイ」(現びわ湖バレイ)を建設したり、翌年にはプロ野球「サンケイ・スワローズ」(現ヤクルト)などにも着手、案に相違して軌道に乗らなかったのか累積28億の借入金を抱えた。そしてここで鹿内と交代、スキー場も球団も手放すことになった。こうして前田と水野を見ていくと、読売の正力松太郎にかなり近い印象もあるが、結局正力の二番煎じに過ぎないまま終わったようだ。

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